伊東市章

歴史浪漫 安宅丸コース

歴史浪漫 安宅丸コース

歴史浪漫ミステリーウォーク -徳川家光御座船 『安宅丸』の謎を追う

安宅丸…
寛永9年(1632)徳川家光が向井将監に命じて新造させた巨大な軍船形式の御座船。
同11年伊豆の伊東で完成し同12年6月2日品川沖で家光が試乗、
以来深川に繋留されて、その巨大さは日本一の御船(東海道名所記)とか、
富士山を見まがうばかり(色音論)といわれ、
またその豪華ぶりは日光東照宮と比肩されるほどで(元正間記)江戸名物の一つとなった。
後年になってこの船の比類のない巨大豪華さが回想され多くの記録が書かれた。
国史大辞典(吉川弘文館)の安宅丸の項より抜粋 巨大御座船安宅丸はなぜ伊東で作られたのでしょう、当時の伊東はどんな町だったのでしょうか?


コース案内 オレンジ色の瓦屋根の宇佐美駅をスタートします。
コース全体は「寄り道コース」を除き、ほぼ平坦。
コース上数ヶ所に多目的トイレが設置されています。
巨大な船の建造がなぜ伊東で行われたのか?
今尚残る謎と対峙してみましょう。
歴史浪漫は証明の無きまま、それぞれの胸にきらめきを残してくれるはずです。

春日神社

春日神社 奥州藤原氏の流れをくむという荻野家の守護神として
ここに奉られたといわれる神社。
境内にあった大クスノキが安宅丸の造船の材料に使われたという伝承がある。
江戸時代には、安宅丸造船に献上された
クスノキの大きな切り株があったこともあって、かなり有名だったらしく、
多くの人がここを訪れた記録が残っています。

文致7年(1824)にここを旅した浦賀奉行小笠原長保の記述に
「村里に到りて、左りの方に春日の社あるを、行きて拝みつ、この社頭に安宅丸といふ御船を造らしめ給ふころ、
 きりたりける楠の木なん有りける。きりたりし本の幹は、十二人して抱ふと言へり。
 空洞になりたる皮よりして、ひこばへなん四本五本生ひて、
 これさへ木の本二三人して抱えつべく見えて枝葉繁茂せり。げにも珍かなる物とぞ見ゆる」
伊豆新聞掲載「安宅丸を追って」 〜伊東のもう一つの造船史〜加藤清志著より

海岸の社

海岸の社 春日神社の祭礼時には、神輿がここへ降ります。
近くには切り出され放置されたままの築城石も…
ウォーキングの途中で青とエンジ色をした
声の美しい鳥が見られることがあります。
伊東市の鳥に制定されているイソヒヨドリです。

しおさい広場

道の駅・伊東マリンタウン 道の駅・伊東マリンタウン
伊豆半島の玄関口、伊東市の国道135号線沿いにある
道の駅・伊東マリンタウンは
ショッピングや食事ができる海の雰囲気を演出した建物です。
遊覧船や天然温泉のスパ施設もあります。

ちょっと寄り道…

ちょっと寄り道… 安宅丸の鉄釘が作られたタタラ沢付近と湯川神社方面へ
安宅丸造船に使用された鉄釘の鋳造所として、
記録に残る場所が北川と弁天川の交わる松月院の墓地の上辺り。 そこがタタラ沢ではないかと考えられています。
■湯川神社(鹿島神社)
湯川神社は通称。鹿島神社は伊東駅より海側にありましたが
明治4年(1871)の大火により焼失し、
天神社の境内へ社殿を移し、
本殿には現在も鹿島さんと天神さんが合わせて祀られています。
神社の杜は深く、伊東駅のすぐ裏にあるとは思えないほどです。
■松月院
本堂左側にある弁天堂には
享保2年(1717)ごろ近くで発掘されたという
金像の弁天様が祀られています。

伊東オレンジビーチ 〜なぎさ公園 〜松川藤の広場

安宅丸想像図-日光東照宮蔵 安宅丸の造船場所は…?
現存する資料の中に、安宅の造船場所を特定する物はなく、伊東のどこで造られたのか?すべてが謎のままです。
造船場所を選定する時の条件に当てはめ、あなたの推理を働かせてみてください。
1.良材が集めやすく、集積場所に困らないこと
2.優れた船大工がいること
3.大船を洋上に押し出すのに適した地形であること
図:安宅丸想像図-日光東照宮蔵

安宅丸を探る…

建造を命じたのは秀忠?家光建造説が伝わる理由は?

家光の伝記『大猷院殿御実記』の寛永8年(1631)の条に
「船手頭向井将監忠勝大御所(秀忠)の仰を蒙り、伊豆伊東の湊にまかり、安宅丸といふ大船を造立す」
とあり、秀忠の命令で造ったとされている。
しかし、翌年秀忠が没したこと、施されていた豪華な装飾が
如何にも派手な装飾趣味をもつ家光によるものと思われたことから、家光の建造とされたのではないだろうか。

建造の意図は?

大阪夏の陣から16年、徳川幕府の基礎は固まりつつあったものの幕府の西国大名への警戒心は強く、
秀忠は江戸防衛のために実戦的な不沈艦として安宅丸の建造を命じたと考えられる。
推定排水量1700トンで漕ぎ手は200人。
幕末まで将軍の御座船だった天地丸(100トン)の漕ぎ手が76人だったことを考えると
要塞的な役割を担わせるつもりだったのではないだろうか。
続々と訪れる外国船に対しての策でもあったのでは…

本当に伊東で造られた?

安宅丸要目表 『大猷院殿御実記』他で安宅丸建造の場所として伊東の名が記されているが、 他の地名をあげる史料もあり、安宅丸建造の伝説を持つ地域も幾つかある。船型と構造から考えてみよう。
安宅丸の実体を解明する史料として、東京大学史料編纂所に『安宅丸御船仕様帳』と『安宅丸御船諸色注文帳』という2冊が現存する。 右図はその2冊の史料や数種の絵図を参考に、和船の研究で名高い石井謙治氏によって作られた復元図である。
石井氏によれば、幅97cm、厚さ67cm、長さ37.9mの巨大な竜骨に多数の肋骨を配し、厚さ21cmの棚板を張り詰めた構造は西洋式。 その上を防蝕・防火のための銅板で包んであり、船体の防蝕用銅板張りは世界最初の例という。 しかし4段に配した船梁や大櫓床や巨大な総矢倉は日本式であり、安宅丸は洋式構造を基本とした和洋折衷の形式の船といえる。
つまり、安宅丸建造には洋式船建造の経験や技術を持つ船大工が必要不可欠だが、 伊東では安宅丸建造にさかのぼること10〜20年前の間に3隻の洋式帆船が建造されており、 その建造に関わった船大工が多数存在したはずで、伊東での建造の確固たる裏付けと考えられる。
また「熱海名主代々手控」には『阿武丸造船年月』の項があり、安宅丸が伊東で作られ、 その完成時には、人足が伊豆の国中から、また引船が河津から網代までの浦々から出たとの記録がある。

他地域にもある安宅丸建造の伝承。安宅丸は秀吉から奪い取ったという伝承は?

「北条五代記」の駿河湾海戦のくだりによれば、北条氏には10艘の安宅船があったという。
安宅船は室町時代末期から江戸時代初期の水軍を形成した攻撃力や防御力に秀でた軍船。
伊豆のあちこちでも安宅船が造られたことは想像に難くない。
秀吉の朝鮮出兵の際には多くの大安宅船が造られたと考えられ、
慶長14年(1609)に家康が西国大名の五百石以上の大船の所有を禁じ、それらを没収した。
つまり、「安宅丸」は伊東で建造されたこの一隻だけなのだが「安宅船」と混同されていると思われる。

安宅丸の装飾は?

安宅丸 安宅丸の装飾は正に豪華を極め贅をつくしたものであったらしい。 伊東から江戸に曳航された後7ヶ月を経て家光が試乗していることから、その間に装飾が施されたと考えられる。
石井氏によれば『安宅丸御船使用帳』『安宅丸御船諸色注文帳』から、 船首には5.5mに及ぶ竜頭、船尾の周りには両側面に1.8mの獅子が3匹ずつ、船尾正面にも1.5mの獅子が2匹、 その周囲は唐草彫り物で装飾され、総矢倉船尾面には孔雀の彫刻、 下側には象の鼻の彫り物。それら彫り物全ては金泥・朱・紺青・胡粉で極彩色を施されていたという。
総矢倉の上の天守も金の鯱が輝き、数えきれない程の彫り物や飾り金具で装飾され、漆の塗装は実に3850坪に及んだというのである。 この作業が行われたのは日光東照宮の大修理の時代であり、デザイン等共通する所が多いという。 東照宮の陽明門のような装飾をされた巨大船が江戸の海に浮かんでいるのを想像してみよう。
きっと絢爛豪華なその姿は、物見遊山の対象であり、様々な伝説が生まれたというのも頷けるのである。

安宅丸の末路

実直な秀忠と、生まれながらの将軍といわれた家光。二人の魂を吹き込まれた安宅丸は、
政治の安定やその莫大な維持費のため将軍綱吉の命により天和2年(1682)に解体された。