伊東市

伊東祐親まつり

曽我物語発祥の地
伊東祐親像
伊東祐親まつり
画像は2015年のパンフレット

伊東祐親とその一族

伊東祐親・曽我物語と伊東市

伊東祐親は、伊東の歴史とは切っても切れない重要な存在である。
明治以前の日本で「伊東」の存在が多くの人に知られたのは、
伊東入道祐親と曽我物語のおかげである、と言っても過言ではない。
それほどに曽我物語の存在は大きかった。
平安時代末期、伊東に本拠を置いた伊東家は、伊東祐親の時代には伊豆第一の勢力を誇った。
相模第一の実力者の三浦義澄(後に頼朝が最も頼りにした武将)に娘を嫁がせるなど、
東国の中で重い存在であった。

嫡男河津三郎は相撲の神様

伊東家の広い所領のうち、河津には長男の祐泰を配置したので、祐親の嫡男は河津三郎祐泰と名乗った。
東国の武将達が集まった奥野の狩りの後、
余興の相撲で無敵を誇る俣野五郎を破って天下に名をとどろかせ、
今も四十八手の一つに「かわづがけ」の名を残している。
それを偲ぶのに、東林寺相撲碑、奥野松川湖畔の相撲モニュメントがある。

赤沢山椎の木三本と曽我兄弟

伊東祐親と、従兄弟の工藤祐経との所領をめぐっての争いが原因で
河津三郎は赤沢山の麓、椎の木三本で、祐経の家来にうたれて命を落とす。
三郎の遺児(すなわち伊東祐親の孫)は、
母の再婚先の曽我(今は小田原市の一部)で成長し、兄が曽我十郎、弟が曽我五郎と名乗る。
この曽我兄弟が、十八年の苦労の末に、
富士の裾野で親の仇工藤祐経を討ち果たすまでの物語が「曽我物語」で、
さまざまな芸能の世界で取り上げられて、数百年にわたって日本中の人に愛され続けて来た。