伊豆の歴史・文化

伊豆の文化 〜伊東市

史跡と文学散歩

いで湯のふるさと「伊東温泉」には数多くの文学碑・歌碑があります。
多くの文人たちが寓居をもとめ情熱の結晶を生み、漂遊にうち過し伊東に縁故のある名作・逸話を生んでおります。
これより、頼朝ゆかりの音無神社などの史跡とともに文人の足跡をたずねてみましょう。

伊東公園の木下杢太郎碑

杢太郎記念碑 伊東駅の裏の小高い丘の上に、
郷土の生んだ偉大な文学者、木下杢太郎の文学碑が建っている。
文学碑と呼ばれることが多いが、
厳密に言えば、多面的な活動をした
杢太郎の全人生を象徴する杢太郎記念碑である。
このあたりは、戦前には李王家の別荘もあった所で、
現在は伊東公園になっている。

碑は伊東市街を一望に見わたせる、なだらかな頂上に昭和31年10月21日、杢太郎碑建設委員会の手によって建立された。
五双と三双の二つの屏風型をした風格のある石碑は、杢太郎と親交のあった谷口吉郎工学博士の設計によるものである。
谷口吉郎の工事報告には次のように述べられている。

「杢太郎さんは、ご存じのように、
どこか折り目の正しい、そして筋の通った、そういうお仕事をなさっておりながら、
そうして何かぐれない、きりっとした、そういう気分をこの碑に持ちたいと思いまして、
ごらんなさいますように、まわりに杢太郎さんの言葉が刻んでございます。
これは、スカンポの花のことをこの中に書いてございますが、この土他のゆかりのある言葉でございます。
また、先生が、もうお年寄りになりましてからも、これを非常に好んでいらっしゃった言葉でございます。
それを正面に刻みまして、それからどこかもう一つ、絵画的なものを出したいと思いまして、
右の石の上に牡丹の花が刻んでございますが、これもスケッチブックの中に入って居りましたもので、
『葱南雑稿』の裏表紙に使ってございます。それをやはり拡大しまして、それに彫りつけてございます。
その横に、『科学と芸術』の言葉が彫ってあります」 (講演速記、杢太郎記念館シリーズ一号より)

黒いのは折壁御影石、茶色は花御影、白いのは稲田御影石で、それが大谷石の上に立っている。
花立ての真下に、遺品の聴診器と万年筆が埋められている。
偉大な文学者であり芸術家であった木下杢太郎の側面と、
優れた科学者であり医者であった太田正雄の側面とを、あますところなく表現した見事な造形である。
詩は「むかしの仲間」として、広く愛唱されたものであるが、
晩年の杢太郎が「ふるき仲間」とした自筆原稿によって刻まれている。
杢太郎の「科学と芸術」から引用した言葉は、親友の吉井勇の筆になるものである。
「葱南」というのは、晩年の杢太郎が好んで使っていた雅号の一つである。

- むかしの仲間 -
ふるき仲間も遠く去れば、また日頃顔合せねば、知らぬ昔とかはりなきはかなさよ。
春になれば草の雨、三月、桜四月、すかんぽの花のくれなゐ。
また五月にはかきつばた、花とりどり人ちりぢりの眺め窓の外の入日雲

山本六丁子と内山雨海

山本六丁子句碑 伊東公園の少し先(伊東駅から徒歩10分)のところに、曹洞宗の名刹松月院がある。
松月院は、杢太郎の生家の太田家の菩提寺であり、
隣の鹿島神社の森(天神山の名で日記にもしばしばあらわれる)とあわせて、
杢太郎もしばしば散策した所である。
古来、月の名所であったが、
今は美しい庭園を持った花の寺として(特に、十月桜にはじまる早春の桜が多い)
また七福神めぐりの弁財天のある寺として訪れる人も多い。
松月院の本堂へ向かって石の階段を登りきった左手、弁天堂のその左(駐車場の奥)の方に、
山本六丁子句碑と内山雨海筆塚が並んで建てられている。
山本六丁子は、本名安三郎で、本業は小児科の医者であるが、
昭和の初め頃に伊東へ移って来て、「笹鳴会」という俳句の団体を主宰していた。
三河の田原藩の人で、同藩出身の渡辺華山ものの鑑定にかけては、日本一、二の眼識を持っていたといわれる。
弟子の佐藤十雨(肝臓先生の名で知られている)とともに、
伊東の某実業家の元にあった「奥の細道随行記」(曽良)の真筆を発見して世に出した人としても有名である。
句碑は、笹鳴会同人の手によって、昭和18年に建立されたもので、
その年が芭蕉の生誕三百年であったことをも記念して、蕉風の流れをくむ六丁子の代表的な句を刻んだものである。

内山雨海筆塚 日本墨画界の第一人者として活躍した内山雨海(本名しげる)は、
昭和20年に「雨海書道墨画研究所」を創立して、
本格的な創作活動と後輩の育成活動に入ったが、
その頃から暫くの間、伊東に居を定めていた。
当時伊東に在住していた
尾崎士郎や坂口安吾らとも親交を深めたのがこの時代である。
昭和32年5月に、彼の満50歳を記念した筆塚が、
門下生らの手によって建てられた。石は京都鴨川から取り寄せた。
塚には、雨海の筆と門下生の筆と合わせて147本が、
昭和時代の毛筆文化を千年後に伝えるという意図で、永久保存の科学的施工をした上で、埋められている。
筆塚碑のそばに、雨海の納筆の言葉が、次のように書かれている。
「ここに納める筆は、私に多くの書画作品を生ましめてくれたものです。
 今、一本一本を見つめる時、私は感謝と愛情とからくる離情に、涙をおぼえます。
 私の修行時代の一区切りのために、この筆塚は建てられたのです。
 私の本当の作品は、これから後に生まれて来ねばなりません。
 私と苦労を共にしてきたこれら大小の筆と共に、今までの仕事もここに埋めるのです。
昭和32年5月11日夜 燈下に浅雨の音をききつつ 雨海記」

海の入日詩碑 (杢太郎文学碑)

海岸へ出ると新しく整備されたオレンジビーチの中ほどに、杢太郎の「海の入日」の詩を刻んだ文学碑が建っている。
この詩は、杢太郎23歳のとき、新詩社の「明星」に発表したものである。
杢太郎の詩人としての成長と、この海岸とは切っても切れない縁がある。
幼い日に、姉たちが歌う賛美歌の調べに、そこはかとない異国情緒をかきたてられたのもこの海岸であり、
帰郷の度にこの海岸に立って、風景に見とれたり、詩情を感じたりしたことは、
彼の書いたものの方々でふれられている。「海の入日竝序」では、次のように書いている。

海の入日竝序
…この南国の半島に於ては自然でさへも軽佻である。
日のうちに海や空が幾度その色を変へるか知れはしない。
遠く水平線の上に相模の大山の一帯が浮んでゐる。予の見たのは夕方であった。
緑の水の上の、入日を受けた大山の影絵は真に蜃気楼であった。
その赤と云っても単純の赤ではない。燈光に照らされた自然銅鉱の赤である。
そして其日かげの紫は正に濁った螢石の紫である。
其間にも殊に光った岬影の一部は、
あかあかと熱せられたる電気暖炉の銅板の面よりほかには比較の出来ない光沢に閃いてゐた。
遠くこなたの岸からその不思議な陸影を眺めていると、
いつか心は阿刺比亜奇話のあやしい夢の国に引き入れられるやうに思はれて来る。

海の入日詩碑 この詩碑は、木下杢太郎生誕百年を記念して、昭和60年に伊東市によって建てられた。
後に海岸整備にともなって、平成3年4月に、現在のオレンジビーチ中央に移された。
この場所は杢太郎生家にもほど近く、彼がしばしば立った所である。
海岸の姿は当時とは変わったが、
気象条件がよければ、杢太郎の描いた情景を見ることができる。
詩碑の高さは170cm・幅210cmで天城産の安山岩を使用してある。

濱(はま)の眞砂(まさご)に文(ふみ)かけば また波が来て消しゆきぬ
あはれはるばるわが思(おもい)、 遠き岬に入日(いりひ)する。

市立杢太郎記念館

入場料:100円(中学生以下50円)
休館日:毎週月曜日 開館は09:00、閉館は夏期(4月〜9月)16:30、冬期は16:00

市立杢太郎記念館 海の入日の碑から、少し大川の方へ寄ったあたりが杢太郎が育った頃には、
東京通いの汽船の発着所(ここから小舟で本船へ乗り移った)になっていた。
そこから、少し街の中へ入った所が杢太郎の生家で、
現在は市立杢太郎記念館になっている。
昭和44年に、杢太郎の甥の太田慶太郎氏によって、
杢太郎記念館として開館されたが、後に伊東市に寄贈された。
木下杢太郎は、本名を太田正雄と言い、
屋号を「米惣」と称するこの土地の素封家の末っ子として、明治18年8月1日に生まれた。
13歳で上京して、独協中学、第一高等学校を経て、
明治44年に、東大医学部を卒業して、医学者としての道を歩んだ。
在学中から文学熱は旺盛で、新詩社の「明星」に参加して、与謝野鉄幹・晶子・北原白秋・石川啄木らと親交を深めた。
その後、雑誌スバルの創刊、パンの会の結成、
雑誌屋上庭園の創刊などを通じて、白秋らと共に、新しい詩の運動の一時代を作った。
森鴎外を終生の師と仰ぎ、戯曲・絵画・美術評論などさまざまな分野で活躍すると共に、
医学者太田正雄としても、優れた業績を残している。
館内には、そうした彼の多面的な活動を示すさまざまな資料が展示してあり、
同時に、杢太郎が成長した当時の生家の雰囲気をも味わうことができるように配慮されている。
また、杢太郎を紹介するビデオテープをも見ることができる。

建物は二つの部分から成り立っている。
主な展示場になっている、通りに面した建物は、明治後期に建てられたもので、
明治時代の商家の面影をよく残しており、杢太郎の代表的戯曲「和泉屋染物店」のイメージが感じられる。
杢太郎の岳父にあたる著名な建築家河合浩蔵の設計によるものである。
土間でつながっている奥の建物は、天保年間に建てられたもので、市内に現存する最古の民家である。
杢太郎の生まれた部屋が保存されており、伊東市指定の文化財になっている。当時の調度類なども展示されている。
杢太郎は、昭和20年10月15日に亡くなり墓は東京都の多摩墓地にある。
木下杢太郎の業績をしのぶ市内外の多くの人たちによって「杢太郎会」が結成され、
杢太郎会の事務局も、この記念館の二階の一室に置かれている。
杢太郎の命日にあたる10月15日の少し前(15日は市内各地の祭典のため、当日ではなく、第一日曜日頃)に、
伊東市文化協会の主宰により、「杢太郎祭」が、毎年盛大におこなわれている。

杢太郎作の西小学校校歌碑

西小学校校歌碑 西に山、東に海、
美しいかな、この岡、われらが里。
あれ あれ あれ あれ、朝日子登る。
あれ あれ あれ あれ、船出の叫び。
さればわれ等も親々の如く、
力めむかな、いざ、はらからよ、友よ。
力めて更に歩武を進めむ。
額に汗、
腕に力、
意志強く、質実に、されどやさしく、
いざ、はらからよ、同窓の友よ。
あな あな あな あな、幸ある御国。
あな あな あな あな、楽しきつどひ。

この歌は、木下杢太郎(本名・太田正雄)が、
昭和3年8月、伊東尋常高等小学校(現在の伊東市立西小学校)の校歌として作詞したもので、
作曲は梁田貞、同年11月10日、校歌として制定されている。
昭和50年度に、西小学校が近代的な白亜の新校舎に建て変えられるのを記念して、
第22代目、深川智章校長の発案により、卒業生の浄財が集められ、約400万円で校歌碑が建立された。
設計は、杢太郎の長男で横浜国立大学教授で工学博士の河合正一の手によるものである。
文学者杢太郎を偲ぶにふさわしく書見台を型どり、厚さ1.5cmのステンレスで製作され、
西小学校の開校記念日である昭和50年3月7日に除幕された。
碑は、西小学校の校庭の一角の植え込みの中(修善寺街道ぞい)に建てられている。
作詩は「太田正雄」と本名になっている。

古見豆人の句碑

古見豆人の句碑 校歌碑の近くには、「古見豆人の句碑」も建っている。
豆人の本名は古見一夫と言い、伊東尋常高等小学校の第8代目の校長として校歌制定を企画して、
木下杢太郎に作詩を依頼したのは、この人である。
天城湯ヶ島町の人で、号を豆人と称した俳人としても名高く、
「大富士」を主宰して、伊東にもその同人が多かった。
この句碑は豆人の遺徳をしのんで、昭和50年11月に伊東市文化協会の手によって建立されたもので、
自然石の表面には、俳人の森米城の手により
「白あやめ おろさん筆の ごとつぼむ 豆人」と刻まれている。
毎年11月22日の命日前後に、この碑の前で、伊東市俳句連盟の主宰により「花石蕗忌」(豆人忌)が行われている。

北原白秋碑

北原白秋碑 北原白秋は、福岡県柳川市出身で、杢太郎と同じ明治18年生まれである。
39年に新詩社へ入り、
与謝野鉄幹や杢太郎らと一緒に、五足の草鞋で天草旅行をして親交を深めた。
パンの会・スバル創刊など、青春時代の文学活動では、
杢太郎と白秋は常に密接に結びついていた。
そういう古い時代からの親友であった杢太郎を通じて、
白秋と伊東とのつながりができ、
白秋はしばしば杢太郎の生家を訪れただけでなく、
伊東には長く滞在していたこともある。
昭和2年に彼は、静岡鉄道の依頼を受け、
今では全国的に知られる静岡民謡「ちゃっきり節」を町田嘉章の作曲により作詩した。
このことを知った杢太郎の兄・太田賢治郎(2代目伊東市長)は、白秋に伊東の民謡を作ってくれるように頼んだ。
昭和四年初春のことであった。依頼を受けた白秋は市内の旅館ヘ一週間ほど滞在して
想を練り、苦心の中で作られたのが「伊東音頭」と「伊東小唄」である。
苦心のいきさつは、昭和4年2月27日付けの白秋から太田賢治郎宛の手紙から偲ぶことができる。

「啓上
 先日は折角の御光来に失礼いたしました。
 あれからまたまた推敲、三、四日前町田君(注・作曲家)の方へまわしました。
 ざぶらん節も伊東音頭と改め、囃子もすっかり別様のものとしました。
 伊東小唄の囃子は全く苦労しました。これでどうやら物になりそうです。
 町田君も今度こそ練りに練りあげたものとすると言っていますから
 いいものが出来るだろうとおもいます。
 小唄の方は沼津ぶしのような気品のあるものにしたいと思っています。
 作曲完成の上はもう一度町田君に行ってもらい
 徳沢さんと一緒に振りの稽古まですまして帰ってもらいます。
 今までの節は当分歌わないように御差とめ願います。
 私は来月十日前に富士ヘスキーの歌と片山津温泉の歌を作りに出かけます。
廿七日 北原白秋 太田賢治郎様」

渚橋際の松川川口、観光会館別館前に、
昭和44年8月6日、伊東市の手により
「伊東音頭」作詩四十周年を記念して、白秋自筆による伊東音頭の歌碑が設立除幕された。

伊東湯どころ ひがしの海に ヨホホイ
朝はゆららと 潮にゆららと 日がのぼる
ざぶらん らんてば 浪の音
とろろん とんてば お湯の音
山では椎茸 蜜柑にたちばな トノホイノ ホイホイ

三浦按針の造船と詩人ブランデン

按針記念碑 江戸時代の初期に、徳川家康の命によって、
三浦按針ことウィリアム・アダムスが日本初めての洋式帆船を建造したのが、
ここ伊東の海岸であると言われている。
このことは三浦浄心の慶長見聞集などに記されている。
松川(伊東大川)と唐人川の合流点にあたる
河口あたりが、具体的な建造場所だと推定されている。
その場所にある川口公園には、「按針記念碑」があり、
海岸際の按針メモリアルパークにはウィリアム・アダムス胸像と
サン・ブェナ・ヴェンツーラ号・記念標柱が建てられている。
碑の石は、真鶴産の本小松石が使用されており、昭和23年に制作された。
記念碑の碑文は、英文と日本文とで、次のように書かれている。(英文略)

按針記念碑
ウィリアム・アダムスこと日本名三浦按針(英国・ケント州・ジリンガム市生まれ)は、
オランダの東洋遠征隊の航海長として苦難の航海の末、
デ・リーフデ号で1600年4月19日、九州豊後に漂着した最初の英国人です。
大阪城で徳川家康の取り調べを受けた後、1603年将軍となった家康から日本橋に一軒の家を贈られ、外交顧問にとりたてられました。 1604年か1605年の頃、浦賀水軍の総帥、向井将監とその部下と共に、 伊東市松川河口でわが国初の80トンと120トンの洋式帆船二隻を、伊東の優れた船大工の助けを得て建造しました。(この史実は慶長見開集に記されています) アダムスは、この功績で横須賀市逸見に250石の領地を与えられました。 やがて120トンの船は日本から太平洋を横断してメキシコに渡り、マニラ貿易に使われました。 アダムスは英国平戸商館に勤務した後独立し、南方貿易にも従事しましたが、1620年5月16日病気のため平戸の地で56才の生涯をとじました。 伊東市はアダムスの事蹟を顕彰すると共に国際親善を願い1948年7月28日にこの碑を建て、英連邦軍サー・ロバートソン中将により除幕されました。 その後、帆船建造から400年を迎えた2004年に、隣接する川口公園のサン・ブェナ・ヴェンツーラ号と交換し、現在に至っております。

ウィリアム・アダムス胸像

ウィリアム・アダムス胸像 三浦按針の本名がウィリアム・アダムスである。
記念碑の碑文に書かれているように、イギリス人であるが、
オランダの貿易会社の御航海長として、苦難の末日本にたどり着いた「海の男」である。
この像は、海の男ウィリアム・アダムスの伊東での造船の記念として、
伊東市が、彫刻家重岡建治氏に依頼して制作したもので、昭和62年8月10日に除幕式を行った。
重岡建治氏は、地元の伊東高校を卒業後、
ローマの国立アカデミー美術学校に学び、エミリオ・グレコに師事して、
現在は伊東市に住んで制作活動を続けている彫刻家である。
8月10日の市制施行記念日にあわせて、毎年「按針祭」が盛大におこなわれている。

ブランデン詩碑

ブランデン詩碑 同じ広場に、イギリスの詩人エドマンド・ブランデンによる
「伊東市民へ贈る」と題した英文の詩碑が建っている。
ブランデンは、平井正穂により
「現代詩人中最もイギリス的な詩人である」と評されているというが、
戦前に、現在の東京大学で英文学を講じていたことがある。
戦後昭和23年に、イギリスの文化使節として再度来日し、日本の各大学などで講演をおこなった。
二年間にわたって日本各地をまわり、「日本遍路」という著書もある。
たまたま昭和23年の按針祭の日に伊東を訪れ、
同じイギリス人の先覚者であるアダムスに思いをはせ即興の詩を作った。
斎藤勇氏の訳文によれば、
「シェークスピアがまだ在世中、一英人が来って、ここに名声を得、
 異なれる他の技術をもって日本民族の永き歴史のうちに一地歩を得た。よろこばしきことは三百年後に……」
というようなふうになる。この詩を伊東市が請うて昭和24年7月に詩碑を建設した。

伊東氏と伊東市

伊東氏略系図 伊東という地名は、平安時代からあった古い地名であるが、
その伊東地名と密接につながるのが、伊東氏の存在である。
伊東氏は、南家藤原氏の流れを汲む工藤氏の一族である。
藤原鎌足の八代の孫為憲が、木工助となったことから工藤氏をとなえるようになった。
工藤為憲の子孫は、駿河や伊豆に土着して、武士となり、各地に広がって行ったが、
伊東祐親(曽我兄弟の祖父)の祖父が、伊東に本拠をかまえるようになったのが、
伊東氏の初代家次(別名工藤祐隆)であると、言われている。
源平騒乱の時代には、平家と深いつながりのあった伊東祐親や
その子伊東九郎祐清・河津三郎祐泰(曽我兄弟の父親)、
頼朝の側近として活躍した工藤祐経(曽我物語では敵役となった)、
宇佐美祐茂らが、歴史に名をとどめている。
工藤祐経の子孫も伊東氏をとなえ、
各地に与えられた所領の支配のため、全国各地へ散らばって行った。
その中には、南北朝の頃から九州に進出して
江戸時代にも、日向飫肥五万一千石の領主として栄えた日向伊東家がある。
本領の伊東には、南北朝の頃までは地頭として存在したようで、
伊東家累代の墓が、伊東市指定の文化財となっている。
現在は音無町の最誓寺にあるが、
元は伊東家菩提寺であった東光寺(近くにあったが、廃寺となった)にあったものである。
伊東祐親・祐清の子孫であると伝えている伊東家も、全国各地にあり、
江戸時代に備中岡田一万石の大名であった岡田藩伊東家をはじめ、地方の旧家にも多い。
伊東氏の同族である宇佐美氏は、
頼朝二十五功臣の一人と言われる宇佐美三郎祐茂から始まり、全国各地へ散って行った宇佐美氏の本家である。
本家の宇佐美氏は、鎌倉時代から室町時代の終わり頃まで、
宇佐美に本拠を置いて栄えたが、北条早雲の伊豆進出に抵抗して滅びた。
宇佐美の城山の麓にある「宇佐美祐茂塁跡」の碑や、宇佐美一族の墓などが歴史をしのばせるだけであったが、
最近の発掘調査では、これ以外の場所からも、中世の繁栄をしのばせるような遺構や遺物なども出土してきている。

源頼朝と伊東

源頼朝の伊豆における事蹟は歴史的事実と証明できるものはほとんど無く、大部分が伝承の世界に属するものである。
有名な蛭ヶ小島の存在も、一つの伝承の域を出ない。
頼朝が伊豆に流されたとき、最初にこれを預かったのが伊東祐親である、と言われている。
韮山の蛭ヶ小島という伝承もあるが、そこへ移るのは後のことで、
伊東祐親は、自分の館から程遠く無い所に、頼朝を住まわせたと見られる。
曽我物語では、伊東の「北の小御所」に住んだと書いているが、その場所が何処であったかという伝承は無い。
物見の松のあった物見塚公園から、葛見神社や東林寺のある一帯が、
当時の伊東家の中心的な場所と考えられているので(館跡は、まだ確認されていない)
松川をはさんだその北側の「小川」のあたりに、北の小御所があったと想像する人もある。
曽我物語によれば、流人頼朝と伊東祐親の三の姫である八重姫とが結ばれることになる。
二人がひそかに逢瀬を楽しんだのが音無の森であり、頼朝がその時の来るのを日暮らし待っていたのが、
その対岸にある日暮らしの森(今は日暮八幡社が、わずかに森の面影を残している)であると伝承されている。
二人の間に愛の結晶として「千鶴丸」(センヅルかチヅルか定説は無い)が生まれる。
祐親が平家の怒りをおそれて千鶴丸を沈めたと言われる「椎児ヶ淵」は八代田橋の上流の方であるが、
狩野川台風以後の川の変化で、今はその面影を留めていない。
音無の森は、昔よりせまくなったがタブの巨木やシイの巨木が残っていて伊東市指定の天然記念物となっている。
ここに祭られている音無神社は、祭神は豊玉姫で安産の神様として信仰を集めているが、
例年11月10日に行われる「尻つみ祭り」でも有名である。
境内の摂社には、頼朝と八重姫を祭った「玉樟神社」もある。
音無神社に隣りあう最誓寺には、後に再婚した八重姫夫妻が
千鶴丸の菩提を弔うために建立したのが寺の始まりである、との伝承がある。

曽我物語ゆかりの場所

日本三大仇討ちの一つとして有名な「曽我物語」の発端は、
曽我兄弟の父河津三郎祐泰が赤沢山の椎の木三本で殺されたことから始まる。
その前座として、有名な「奥野の巻狩り」と、その余興の「大相撲」がある。
以下、曽我物語によって、伊東市とかかわりのある部分のあら筋を紹介する。

流人生活を送っている頼朝を慰めようと相模の大庭景義らが発起人となって、
伊豆・相模・駿河などの武士数百人が伊東へ集まって来た。
名高い奥野で狩りをしたいという武士たちの求めに応じ祐親が領内から勢子を集めて三日三晩の大巻狩りを催した。
その余興として若者どもの大相撲が始まった。
たて続けに32人を敗って奢りに乗った俣野五郎景久に待ったをかけたのが、
伊東祐親の長男で河津の領主であった河津三郎祐泰であった。
この相撲で見事な勝利をした河津三郎は相撲中興の人として崇められ、
今も相撲四十八手の中に「河津掛け」の名を残している。

相撲の碑 祐親が、わが子祐泰の死を悼んで菩提寺にしたと言われる東林寺には、
河津三郎の墓と曽我兄弟の墓といわれるものがある。
昭和34年、ここが整備された記念に大日本相撲協会の一行により、
供養のための横綱土俵入りなどが行われ記念碑が建てられた。
当時の時津風理事長(元双葉山)や、現役横綱の栃錦・若の花・朝潮らの
豪華な名前の入った記念碑が参道の入り口に建てられている。
東林寺には、この他に本堂の一角に伊東祐親や千鶴丸の木造が安置され、
伊東祐親や河津三郎等の位牌も、拝むことができる。
奥野というのは、広大な山野をさすものと思われるが、
ここが相僕場跡と伝承される土地が幾つかある。
その一つである元の奥野の集落の外れあたり、
今は奥野ダムによってできた松川湖のほとりに記念のモニュメントを建設する計画がすすめられている。

河津三郎血塚 従兄弟同士である伊東祐親と工藤祐経の領地争いによって、
祐親を深く恨んだ祐経は、
家来の大見小藤太と八幡三郎に命じて祐親親子の殺害を命じた。
狩りの余興の相撲が終わって帰る親子を遠矢にかけて殺そうとしたが、
祐親を射損じて祐泰だけを殺した。
弓を射た二人がたてにしたという椎の木の大木は、
「椎の木三本」と呼ばれて名所になっていたが今は枯れてしまっている。
河津三郎が命を落としたと言われる場所は、
今も暗い谷あいに古い積石塚と宝筐印塔があり、河津三郎血塚と呼ばれ伊東市指定の文化財になっている。
今は整備されて形が変わっているが、この前を通る細い道が江戸時代からの旧道下田街道の名残である。
河津三郎の妻は、祐親のすすめによって曽我祐信と再婚した。
三郎の二人の遺児は、母と一緒に曽我(小田原市・梅林で名高い)に移って、
元服して曽我十郎・曽我五郎と名乗ったので曽我兄弟と呼ばれる。
この兄弟が父の仇を討つため、富士の裾野の巻狩りの場で見事に工藤祐経を討ち果たすまでの物語が曽我物語である。
語り物としてだけでなく早くから芸能化され、特に江戸時代の半ば以降は歌舞伎の正月のだしものとして、
曽我ものの一幕は無くてはならないものとされ、さまざまな趣向をこらした曽我ものが上演された。
曽我物語の全国的流行にともない、曽我物語ゆかりの伝承を持つ場所もあちらこちらにでき、
曽我兄弟の墓は、富士の裾野をはじめ十数ヶ所に及んでいる。東林寺裏山の墓も供養塔と考えるべきであろう。

葛見神社の大クス 伊東における、その他の曽我物語関連の伝承地としては、
千鶴丸が流れついたとされる富戸海岸のうぶげ石や、
千鶴丸を祭ったとの伝承がある富戸三島神社の相殿の若宮八幡、
その手に持っていた橘をさしたものが根づいたとされる橘の木(同神社)
などがあげられる。
伊東家の館跡の伝承地の一つである物見塚公園に伊東祐親の銅像があり、
そこから300メートルほど西(台地の外れ)に、
伝伊東祐親の墓として伊東市指定文化財になっている立派な五輪塔が建っている。
そのそばの坂を下れば、菩提寺の東林寺にいたる。
東林寺にほど近い葛見神社は延喜式の式内社としての古い格式を持つ神社であるが、
伊東家の守護神としても大切にされ、
伊東一族の手によって修復造営されたことを示す棟札をも所蔵していた。
境内にある葛見神社の大クスは、国指定の天然記念物である。

日蓮上人と伊東

日蓮宗の人たちが言う「祖師日蓮の三大法難」の一つ「伊豆法難」の舞台が、現在の伊東市である。
立正安国論をあらわし幕府政策を批判し、
激しい布教活動で他宗を批判した日蓮が、念仏宗派など他宗の人々や、北条氏の怒りにふれて
伊東への流罪を宣告されたのが、弘長元年(1161)の5月のことである。
鎌倉の由比ヶ浜から小舟に乗せて送り出された日蓮は、
送って来た役人に満潮時には波の下に沈んでしまうような小岩の上に置き去りにされてしまった。
危機一髪のところを通りかかった川奈の漁師(後に、船守弥三郎と呼ばれる)に救われて、
とある岩屋にかくまわれて大切にもてなされた。

蓮着寺・まないた岩

まないた岩 日蓮が置き去りにされたという岩は、
後にまないた岩と呼ばれるようになった。
その側の海岸に、今は蓮着寺奥の院の「祖師堂」が建てられており、
堂の前の海岸には日蓮が感謝をこめて
七字の妙号(南無妙法蓮華経)を投げ書きしたという
伝承のある題目岩(寺では「岩題目」と呼ぶ)がある。
鳥崎などと呼ばれたこの岬に後になって蓮着寺が建てられ、
この一帯は日蓮崎・上人崎・笹見浦などとも呼ばれて来た。
伊東駅または伊豆高原駅から出る「富戸海洋公園行」のバスの終点近くに蓮着寺がある。
境内一円には、他に日蓮聖人袈裟かけの松や石喰いのモチの木などもあり、またヤブツバキの名所でもある。
ここはまた、城ヶ崎自然研究路の始点にもなっており、まないた岩を真下に見下ろす岬の突端には、
大正時代の蓮着寺住職・田辺成清が、近海航行の船の安全をはかるために、
灯明台を作って夜毎に灯をともし続けたといわれる常夜灯の跡と記念碑がある。

川奈のお岩屋と蓮慶寺

日蓮をまないた岩から救った後、
船守弥三郎夫妻は川奈の海岸近くのとある岩屋にかくまって衣食住の世話をしたといわれる。
日蓮は、ここに過ごすこと30日ほどで伊東へ移った。
それは伊東の地頭であった伊東八郎左衛門尉が難病におかされ日蓮の法力に頼るべく伊東へ招いたからである。
伊東へ移ってから日蓮が船守弥三郎あてに送った手紙が「船守弥三郎許御書」といわれ、
日蓮の感謝の気持ちがこめられている。
後に弥三郎屋敷跡と言われる場所に建てられたのが蓮慶寺であり、ここには船守弥三郎夫妻の墓もある。
また、日蓮がかくまわれたという場所に後に上行院が営まれ、現在も「川奈のお岩屋」の名で知られている。

仏現寺

日蓮の読経祈念のおかげで
難病をなおしてもらった地頭(領主)の伊東八郎左衛門尉は、その後あつく日蓮に帰依したと言われる。
おかげで日蓮は比較的平穏な状態で流人生活を送ることができ、この期間に重要な著作なども行った。
日蓮が流人であることも考慮して、八郎左衛門の屋敷の鬼門を守るビシャモン堂に住まわせたと言われる。
そのビシャモン堂跡を、
後に日蓮宗門の人たちが祖師日蓮の聖跡として一寺を建立したのが仏現寺の始まりであると言われている。
江戸時代までは「惣堂」(草堂)とも呼ばれ、近隣の日蓮宗の数か寺が輪番でここを守って来た。
今も、この寺のかたわらを通る道の坂は「そうどう坂」と呼ばれており、この道は江戸時代の下田街道である。
日蓮は、ここで過ごすこと三年、弘長3年の2月に許されて鎌倉へ帰った。
その時、日蓮は42歳の厄年であったことから宗門では「厄除けのお祖師様」と呼んでおり、
二月のビシャモンさんの祭りも年々盛大になって来ている。
この寺は「天狗の詫証文」を持っている寺としても知られている。
境内には、文学散歩にとっても見逃すことのできないものが二つある。
「荻原井泉水句碑」と、著名な作家の和歌などを刻んだ「平和の鐘」である。

荻原井泉水句碑

荻原井泉水句碑 仏現寺の本堂前の木立の中に
高さ2.5メートル・横4メートルに及ぶ大きな句碑がある。
どちらが表だか裏だかわからないが両面に句が刻まれている。
これは、日蓮上人の徳を讃えようとした広瀬奇壁という人が
友人の荻原井泉水とはかって日蓮ゆかりのこの寺に建てたものと言う。
建てたのは昭和11年であったが、
27年に境内の一部を東小学校用地として譲った時、現在地に移された。
奇壁の句は「蜂巣華八紘に大聖妙法の光」で、題額の「如是」は海軍中将小笠原長生の書いたものである。
井泉水の句は「裏はまつ山の夏の雨はれてゆく雲」である。
河東碧梧桐とともに、俳句の新傾向運動に身を投じて、
俳誌「層雲」によって自由律俳句を推進した井泉水らしく定型にとらわれない自由律の俳句である。
この「層雲」の有力な同人で、自由律俳句で名高い遍歴の俳人山頭火が、
昭和11年の春にこの地を旅して、数日間滞在し、
「伊豆はあたたかく死ぬるによろしい波音」
「湯の町通りぬける春風」
「はるばるときて伊豆の山なみ夕焼くる」などの句を残している。
泊まったのは和田湯近くの商人宿伊東屋であったが、今はそれを偲ぶよすがになるものは何も無い。
和田湯にそのことを記した説明板がある。

仏現寺の平和の鐘

仏現寺の平和の鐘 仁王像のある山門の側から仏現寺へ入ると、鐘つき堂が目にはいる。
太平洋戦争のときに、由緒ある寺の鐘は供出されたまま帰って来なかった。
戦後、新しく鋳造するにあたって従来の漢詩の銘などにかえて、六名の著名な作家の和歌や俳句を入れることにした。
そのかたわらに「忌むべき戦争と運命を共にした梵鐘を、犠牲者菩提のため、新に之を鋳造し、平和の鐘と名づけて…」という
「平和鐘祈祷のことば」が刻まれている。
五人の短歌五首と、一人の俳句二句は、つぎのようである。

新しき 国につくさむ むつみあひ ともにはたらき 共に栄えて - 千葉胤明
とどろきて 消えゆく鐘に 明けくれの こころ寄すらむ 伊豆の国人 - 窪田空穂
寝ねたりて おもひ空しき 暁の こころにひびく 大寺のかね - 尾上柴舟
初日のほる 一天四海 やはらきの 春来れりと 初日はのほる - 佐々木信綱
朝ゆふに 打つ鐘の音は あまひゞき 地ひゞき永遠に ひゞきわたらむ - 斎藤茂吉
三世の仏 みな座にあれば 寒からず - 高浜虚子
山寺や 撞きそこなひの 鐘霞む - 高浜虚子

仏光寺

仏光寺六角堂 日蓮に伊東八郎左衛門の病気をなおす為の祈祷を頼んだのは伊東家の家臣の綾部正清だといわれる。
その正清が主人八郎左衛門の館跡を寺として、
八郎左衛門に日蓮上人の法号を贈って開山としたのが、現在の仏光寺であると言われている。
宗門の間では何時の頃からか
八郎左衛門のことを伊東朝高と呼んでいたので伊東朝高屋敷跡とも呼ばれている。
境内には伊東八郎左衛門朝高の墓と綾部正清の墓もある。
八郎左衛門は病気がなおった感謝の気持ちをこめて、一体の仏像を日蓮に贈った。
この仏像は、それ以前に伊東の漁師の網にかかって海中から出現した釈迦仏だということで
日蓮が一生片時もはなさずに大切にしたといわれ、今も宗門の宝として京都の寺にまつられている。
海から出た仏にちなんで仏光寺の山号を海上山と言い、仏現寺の山号を海光山と言うのである。
境内にある六角の本仏堂は、
海中の仏像を網によって引きあげた漁師の子孫であるという伝承を持つ鈴木鶴松の寄贈になるもので、
仏教学者でチベット探検家としても名高い河口慧海の書などもあり、市内では珍しい六角堂である。

尾上柴舟歌碑

尾上柴舟歌碑 仏現寺にある高台に続く一帯は物見が丘と呼ばれて来た。
かつて伊東氏の館があった場所ともいわれ、
物見塚・物見松などの名勝もあったが、
市指定の天然記念物になっていた
物見の松は、惜しくも数年前に枯れてしまった。
縄文時代の遺跡遺物も数多く出土した所で、
歴史の各時代の営みをきざんで来たこの場所は、
現在、市庁舎があり隣接する物見塚公園との間に伊東を愛した歌人「尾上柴舟」の歌碑がある。
これは、昭和6年4月に伊東柴舟会の手によって建てられたもので、草仮名の大家である柴舟自筆の見事な筆跡である。
柴舟は本名を八郎といい、明治9年8月、岡山県津山市で生れ13才の時から歌を学び落合直文門下となり、
明治43年東京大学国文科を卒業後大学院へ進み、
35年、金子薫園とともに「叙景詩」を出版し「明星」の歌風にあきたらず清新な境地があることを主張した。
そして、東京女高師(現お茶の水女子大)、早稲田大学等で教鞭をとるかたわら、
平安時代の草仮名の研究で文学博士となった。
碑に刻まれた歌は、明治43年「創作」に「天城野火」として発表した中の一首で、
大正2年刊の歌集「日記の端より」の冒頭を飾ったものである。
彼は大正の頃から伊東に別荘をもち、昭和32年1月13日、80才で永眠するまでの毎年数ヶ月間をここで過した。
別荘は桜木町二丁目の裏通りの閑静なところにあったが今は駐車場になっている。
彼は歌碑の立てられている物見塚公園をこよなく愛し、
散策の途次などしばしば立ち寄り、市街地から続く郊外の山々を望み多くの歌を詠んだといわれる。
伊東には三十年以上も在住していたので伊東で詠んだ歌も非常に多く、わかっているものだけでも四百首をこえる。
柴舟の作品としては、詩歌集「吟鈴」詩集「金帆」歌集「空の色」などがあげられる。

室生犀星じんなら詩碑

室生犀星じんなら詩碑 市内の中央部を西から東へ流れる松川中流附近にある
聖マリア幼稚園前の大樹の陰に室生犀星詩碑が建っている。
音無神社の対岸である。
スウェーデン産の黒御影石の碑身を
富戸産の安山岩で支え台座は修善寺産の六方石で囲まれたこの詩碑は、
昭和46年4月16日犀星遺族出席のもと伊東市により設立除幕された。
碑に刻まれた「じんなら魚」は、
犀星が大正12年3月34才の時伊東温泉を訪れ、浄の池で「じんなら」を見て、
湯けむり立つ池の中で必死に泳ぐじんならを我が身にたとえて詠んだ詩である。
当時、彼は生まれてまもない愛息・豹太郎を亡くし絶望のさなかにあったと言われていた。
この詩は大正13年に刊行された詩文集「高麗の花」に収められており、
発表当時は地元の文学青年たちの間で広く愛誦されたといわれる。
彼にとって、和名をヤガタイサギと呼ばれるこのじんなら魚はよほど印象的だったとみえ、
昭和32年の代表作「杏っ子」の中でも「じんなら魚」という一章を設けている。
浄の池はなくなったが松川の流れにじんならの魚影を見ることができる。

伊豆伊東の温泉(いでゆ)に じんならと云へる魚棲みけり
けむり立つ湯のなかに 己れ冷たき身を泳がし あさ日さす水面に出でて遊びけり
人ありて問はばじんならは 悲しと告げむ
己れ冷たく温泉(ゆ)はあつく されど泳がねばならず けぶり立つ温泉(いでゆ)のなかに棲みけり

尾崎士郎文学碑

尾崎士郎文学碑 昭和8年3月より都新聞(現在の東京新聞)紙上に連載された
「人生劇場・青春編」は当初さした評価を受けていなかったが、
同10年、川端康成の賛辞を得るにいたり爆発的な人気を浴びた。
軍国主義華やかな重苦しい時代のなかで強く明るく生きぬく
青年主人公・青成瓢吉には作者自身の面影を多分に宿しているといっても過言ではないだろう。
この青年小説「人生劇場」の作者・尾崎士郎は
昭和19年10月に東京・大森から伊東へ戦時疎開をしてきた。
当時伊東在住の友人のすすめにより子供の療養のために住むことになるのがきっかけであったが
昭和28年3月に東京へ移転するまでの約10年間を伊東で過ごしている。
この間、朗々たる浪漫精神の持主であった彼は、戦争〜終戦〜その後の混乱期と激しく移り変る世の中を、
伊東温泉より眺めながら「天皇機関説」「早稲田大学」「ホーデン侍従」などの力作を書き続けた。
伊東における彼の初めの住居は現在の広野三丁目の文学碑附近にあり、玄関を開けるとニ畳の部屋、
左に襖一重で仕切られた四畳半の書斎、他に八畳と三畳しかない手狭な家であったが、だれからも好かれ、
慕われる彼の性格により、サンケイ新聞の水野茂夫や作家の坂口安吾などの友人をはじめ、
市内の多くの青年たちが彼を訪れ、時には夜の更けるまで談笑することがあったが、
家が余りにも手狭であったため昭和25年頃、
彼は音無神社の附近の日向別荘(現在・社会教育センター隣に現存)へ移り住みここで4年ほどを過した。
伊東在住の際、書きあげた「ホーデン侍従」の主人公は当時親交のあった
市内中央町天城診療所の肝臓先生こと、佐藤十雨氏であり
戦後復興の中で笑いを忘れていた人々に明るく楽しい話題をまいた。
文学碑ぎらいといわれた彼であったが、没後2年たった昭和41年5月
彼の郷里・吉良に次いで二つ目の碑が、彼のはじめ住んだ場所の近くにある広野ロータリーの一角につくられた。
高さ165cm・幅100cmの天竜川産の石を組み合せて台石として、
その上に高さ100cm・幅70cmのスウェーデン産黒御影石をのせたものであり、
文面は昭和20年10月に書いた「謫居随筆」の中の一節で、
友人の作家仲間・尾崎一雄について書かれたものを親友の水野成夫が撰んだものである。

塩田紅果句碑

松川公園の植え込みの中に真鶴産の安山岩を使った小じんまりとした句碑が建っている。
俳誌「蟻の塔」を主宰した俳人塩田紅果も伊東に門弟が多い。
昭和28年3月21日に、温泉旅館鈴幸の庭に門人の手によって建てられたが、
後に旅館の改築にともなって昭和46年9月16日に旧旅館大輪荘に移され、その後平成9年に現在の場所に移された。
温泉にふさわしく「ほのぼのと 温泉(ゆ)の香ほぐるる 花がすみ」の句がきざまれている。

高浜虚子と米若 - よねわか荘の虚子句碑

高浜虚子の句碑 尾崎士郎文学碑の近くにある旅館「よねわか荘」の玄関横に、高浜虚子の句碑がある。
俳句の弟子の米若師匠から旅館の開業祝いに令嬢とともに招かれた虚子が
当時館内に自噴していた温泉と、その湯質のよさに感嘆して、その場で一句よんだものである。
昭和26年のことである。
その年の8月、伊豆にふさわしい伊豆石を使って旅館の玄関わきに建立されたのがこの句碑である。
高浜虚子(本名・高浜清)は、明治7年2月に愛媛県松山市に生まれ、
同郷の正岡子規に師事して俳句雑誌「ホトトギス」を明治31年に子規から受け継いだ。
以後、明治・大正・昭和の三代にわたって近代俳句史上に不滅の足跡を残した。
ほととぎす 伊豆の伊東の いでゆこれ

米若句碑

よねわか荘という旅館は、浪曲佐渡情話などによって一世を風びした
浪曲家の寿々木米若(本名・藤田松平)が、自らの旅の経験をもとに作ったと言われる。
米若はホトトギス同人の俳人としても知られ巡業先の生活を詠んだ多くの句を残している。
その中から一句を選んで米若一門の手によって、
旅館の庭内に建立された「米若句碑」には、次の句がきざまれている。
巡業の 山寺泊り ホトトギス 米若

さくらの里の虚子文学碑

虚子文学碑 虚子の伝統俳句を継承する俳誌「みちのく」では、
創刊四十周年を記念して大室山麓のさくらの里に虚子の文学碑を建立した。
その主旨として「虚子の人生哲学と思われる文句を碑に刻み、
 これを日本の中央に位置し、
 この碑文に相当の景勝地大室山麓さくらの里に建立し、
 末永く青少年の徳育に資したい」としてある。
虚子の花鳥風詠人生哲学を表現した文として選んだ碑文は、
虚子の手紙の一節に感動した同人の一人が虚子に請うて書いてもらった直筆の色紙によったものである。
愛鷹産の安山岩にきざまれている。

人生とは何か。私は唯月日の運行、花の開落、鳥の去来、それ等の如く、
人も亦生死して行くといふことだけ承知してゐます。 虚子

穂積忠歌碑

穂積忠歌碑 同じ「さくらの里」の一角に、穂積忠(きよし)の歌碑がある。
穂積忠は、明治34年に現在の大仁町に生まれ
北原白秋の門に入って歌集「雪祭」によって、
第一回多磨賞・大日本歌人協会賞を受けるなど、
早くから歌人として名をなした。
また、国学院に学んで折口信夫の高弟としても知られている。
伊豆の風物を格調高くうたいあげた長歌短歌の作品も多く、
伊豆を代表する歌人でもある。
また、教育者であり
現在の伊東高校の前身である伊東高等女学校の校長として、
昭和16年から23年まで在勤し、現在の伊東高校の校歌は穂積忠の作詩による。
伊東在勤中にも、この地の旅館で折口信夫・柳田国男と三人で連歌の集いを持ったことなどが知られている。
こうした縁にちなんで、伊東市制三十周年を記念してさくらの里が整備された時、
伊東青年会議所の手によって、この歌碑が建立された。
真鶴産の安山岩に大家山をテーマにした格調高い歌がきざまれており書は鈴子夫人の手によるものである。

水原秋桜子と城ヶ崎海岸

秋桜子句碑 自然景観の美しさを誇る城ヶ崎海岸の遊歩道は、
「城ヶ崎ピクニカルコース」と「城ヶ崎自然研究路」の二つに分かれる。
その接点にあるのが、蓮着寺や海洋公園であるが
来遊者の多くは、門脇灯台吊り橋から海洋公園へかけての
ピクニカルコースの方へ集中する。
自然研究路の方はいつも静けさを保って、心ある旅人を満足させてくれる。
城ヶ崎自然研究路のなかの第一の景勝地が
「はしだての吊り橋」〜柱状節理の美しい「大よど・小よど」海岸であろう。
その「はしだて広場」の一角に
伊東市によって秋桜子句碑が建立されたのは、昭和47年5月14日のことである。
真鶴産の小松石に、秋桜子がこの地で詠んだという自筆の句がきざまれている。
磯釣りの名所でもあり、市の花になっている椿の自生の多いこの土地にはぴったりの句である。
水原秋桜子は本名は豊で、明治25年10月9日に、東京の神田で生まれた。
伊東出身の木下杢太郎と同じコースで独協中学・一高・東大医学部と進み産婦人科を専攻した。
在学時代から俳句を始め、大正末期から昭和初期にかけてはホトトギスの主流として活躍したが、
後にはそこを離れ「馬酔木」によって「自然の真と文芸上の真」の主張をかかげて俳壇の一方の雄として活躍して来た。
碑のある場所へは、伊豆高原駅の八幡野口から徒歩15分足らずで行くことができるし、
入り口の有料駐車場まで車で行けば5分余り歩くだけでよい。
かならずしも自然研究路の全行程を歩く必要は無く、
歌碑・吊り橋・はしだての絶景を眺める小一時間(駅から駅まで)の散歩もよい。
天皇家の長女紀宮さんが平成4年にゼミの卒業旅行で歩かれたのもこの小散歩コースである。
駅の方へ戻りながら城ヶ崎文化資料館へ寄って行くのもよい。
日本人の生活を支えて来た各種の文化資料や民具などと日本でも数少ないガラス絵の常設展示がある。
その近くには、創作人形を主体とした人形の美術館それいゆもある。

与謝野鉄幹・晶子と一碧湖

鉄幹・晶子が中心となった「明星」では、郷土伊東の生んだ詩人木下杢太郎や、
伊東音頭の作詩家でもある北原白秋、吉井勇、高村光太郎など多彩な同人が活躍していた。
明星が百号をもって廃刊した以後も、夫妻の創作意欲は衰えなかったが、
特に晶子は芸術一般のみならず、教育問題婦人問題などあらゆる分野ではば広い活躍をした。
与謝野夫妻と伊東との深い結びつきができたのは、夫妻にとっては晩年の昭和に入ってからである。
伊豆を愛して一碧湖畔に終生の住処を築いた嶋谷亮輔の抛書山荘を夫妻は毎年のように訪れるようになった。
嶋谷夫人が新詩社の同人であった縁にはじまるのてあるが、
やがて家族ぐるみの付き合いとなり数日の滞在を繰り返すことになる。
昭和10年の鉄幹の死後もそれは続き、嶋谷氏の案内で大室出・川奈ホテル・富戸など
周辺にも出かけて歌を詠み、夫妻が一碧湖を中心にして伊東で詠んだ歌は数百首にのぼる。
それらの歌は昭和6年以後新詩社の同人誌であった「冬柏」に掲載されている。
最初の頃は熱海から船で来たりしたが、温泉奸きの夫妻は伊東へ来ると、
新詩者同人の岡崎氏の別荘(和田湯近くにあった)で温泉につかるのが例になっていた。
船から見た伊東の歌や、岡崎別荘での歌、新井の宝泉寺そのほか市内各地で詠んだ歌も多い。

初夏の天城おろしに 雲ふかれ みだれて影す伊豆の湖 鉄幹
うぐひすが よきしののめの空に鳴き 吉田の池の碧水まさる 晶子

歌碑と一碧湖遊歩道

与謝野鉄幹・晶子歌碑 伊東市では数ある夫妻の歌の中から、
それぞれ一首を選んでゆかりのある一碧湖の畔に歌碑を建てた。
歌碑は台湾産の千枚石で、主石と脇石からなり、
昭和51年12月11日に長男光氏をはじめ関係者出席のなかで除幕式が行われた。
鉄幹の「初夏の 天城おろしに…」の歌は昭和9年のもので、
冬柏五巻七号の「ホトトギスとイチゴ四」の三十九首の中にある。
晶子の「うぐひすが よきしののめの…」の歌は、
昭和12年の作で冬柏八巻四号の「幽歩抄一」六十九首の中にある。
この二首は、いずれも伊東市民が所持している短冊色紙の中から選ばれたもので、
二人の直筆の文字を、そのままの形で歌碑にきざんである。
夫妻が滞在した山荘は歌碑のある広場と向かい合った高台にあり今は別荘分譲地となっている。
一碧湖は、伊豆の瞳とも呼ばれ、当時、日本百景の一つに選ばれた美しい湖である。
ひょうたん型をして、主たる湖と沼池とに分かれ、
そのくびれの部分が橋になって池田ニ十世紀美術館の方へ行くバスの通路になっている。
そのおのおのに、湖畔一周の遊歩道が整備されている。
大きい方(普通は、こちらだけを一碧湖と呼んでいる人も多い)は天城の影を写し、
大室山の溶岩が押し出して作った十二連島などの景観と、
四季それぞれの雑木林の姿に風情のある遊歩道で一周約30分の途中に与謝野鉄幹・晶子の歌碑がある。
小さい方は、ふつうは沼池と呼ばれるように
アシやイグサ(フトイ)の繁った浅い沼状になっており、冬は渡り鳥の別天地でもある。
こちらも、一周30分足らずの遊歩道がつけられており四季それぞれの風情を楽しむことができる。

小室山公園の句碑

ツツジとツバキの名所小室山公園には、二つの句碑がある。
公園まで行くバスの回数は少ないが、帰りはツバキ園の中を歩いて下っても10分ほどで国道へ出られる。
川奈駅から歩くと、登りでは20分余みた方が良い。
5月上旬のツツジのじゅうたんに埋められる頃の眺めは圧巻であるが、
12月の早咲きのツバキにはじまって4月頃まで次々とツバキが咲くし、
梅・桃・桜からツツジ・サツキ・アジサイヘと季節の移り変わりに応じた花を楽しむこともできる。

小室山を詠ふ五俳人の句碑

五俳人の句碑 ツツジ祭り俳句大会が例年盛大におこなわれているが、
この俳句大会にゆかりの深い五人の俳人の句をきざんだ句碑である。
それぞれの俳誌を主宰されて、
現在の俳句界の第一線で活躍されている五人の俳人の方々にお願いして、
伊東市俳句連盟が建立したものであり、昭和61年4月23日に除幕式がおこなわれた。
句は、どれも小室山で詠まれたものである。

恋すてふ 落暉(らっき)追ひ落つ 寒椿 - 渡辺恭子 - 曲水主宰
鄙(ひな)ぶりの くれなゐ強き 椿かな - 島村茂雄 - 笛主宰
つつじ燃え 伊豆の近か富士 親しうす - 河野南畦 - あざみ主宰
人語絶ゆるまで 繚乱(りょうらん)と つつじ燃ゆ - 小笠原龍人 - 塔主宰
神々の 襖をはづす 五月富士 - 神蔵器 - 風土主宰

芭蕉句碑

庶民の笑いを特質としていた俳諧を、
和歌や連歌に劣らない美にまで高めた功績から俳聖とよばれる松尾芭蕉は
正保6年(1644年)三重県伊賀上野で生れ、元禄7年旅先の大阪南御堂前の宿で息をひきとるまで全国各地を歩き
「野ざらし紀行」「更級紀行」「奥の細道」「猿蓑」等を著わしたが、この伊東へは一度も足を踏み入れなかった。
しかし、市内には芭蕉の句碑が三ヵ所に建てられている。

市庁舎のある物見塚公園には、「けふばかり 人もとしよれ 初しぐれ」
とあり、元禄5年の冬の作で「続猿蓑」に収められている句が刻まれてる。碑の裏には雪中庵対山の名が記されている。
対山は芭蕉の高弟嵐雪から五代目の弟子にあたり、
碑は今から約130年ほど前に旧中伊豆町の庚申堂に建てられたものが、縁あって昭和46年7月現在地へ移された。

和田の浄円寺には、邑蕉42才の春の作で最も有名な句が彫られている。
「古池や 蛙とびこむ 水の音」 自然石に刻まれたこの句碑は、
天保12年に下田街道沿いに道しるべとして建てられたものだが、大正14年5月に浄の池にうつされた。
碑の右下には「三島七り 小田原十二り 下田十一り余」とも書かれ、遠く昔の道しるべの面影をしのばせている。

宇佐美山田にある朝善寺境内には、芭蕉が48才の時郷里伊賀上野で詠んだとされている句が刻まれている。
「としとしや さくらをこやす 花のちり」
碑の建立時期ははっきりしないが明治の末ごろと思われる。

中村敬宇顕彰碑

宇佐美駅前の大通りを、海岸へ出た所にこの碑が建ててある。
中村敬宇の父の佃武兵衛は、当地宇佐美の出身で、旗本中村家の株をついだ。
その子敬宇は、明治初期のベストセラー「西国立志編」によって、啓蒙思想家として不朽の名を残し、
教育・特に女子教育の分野でも大きな功績をあげた。
その徳をしのび、地元有志の手で昭和46年に建立された。
像は、熱海出身の沢田政広、書は川端康成という立派なものである。

森米城句碑

海岸を留田の港(熱海寄り)へ進むと、烏川の川口近くに森米城句碑がある。
森米城は本名米次郎と言い、地元宇佐美の俳人で伊東市文化協会の会長としても大きな足跡を残した人である。
昭和44年に、地元の門下生の手によって建てられた。

宇佐美祐茂塁跡の碑

宇佐美祐茂塁跡の碑 烏川の川口から左岸の道を少しさかのぼると、宇佐美祐茂塁跡の大きな碑が目にはいる。
烏川と国道と海とで囲まれた丘の一帯が、鎌倉時代から戦国時代のはじめにかけて、
宇佐美氏の本拠にした土地であるといわれ、この小高い丘を「城山」と呼んでいる。
昭和初期に、この頂上に当時の第一高等学校の水泳部の寮があった。
その縁にちなんで、一高校長の杉敏介に書を依頼して建てたものである。
木陰に散在していた宇佐美一族の墓といわれる五輪塔などが一か所に集められているが
入口が無くてわかりにくい。

ヒハヨ天神社・朝善寺芭蕉句碑

国道をはさんで城山と反対側にある森が武内社の「ひはよ天神社」で
静岡県指定の天然記念物の「ホルトノキ」がある。
社の前の道を平地のふちを通るようにして鉄道線路の方へ向かって進む。
踏切の少し手前で右(山がわ)の方へ進むと朝善寺がある。
日蓮宗の身延山中興の祖といわれる日朝上人は、ここ宇佐美の出身で
日朝の父朝善の名に由来するこの寺は、地元では「日朝さん」と呼ばれている。
ここまで足を伸ばしたなら、梅の季節には踏切を越えて孤山園を訪れるのも良い。

みかんの花咲く丘童謡碑

この場所は、離れていて散策というわけには行かない。
亀石峠へ向かう自動車道路を半分くらい登った所に、この碑がある。
車二台くらいはとめられるので、降りてみると宇佐美を見下ろす素晴らしい景観である。
童謡「みかんの花咲く丘」は、
昭和21年に伊東西小学校での発表会を全国放送したのがはじまりで、たちまち一世を風靡した。
みかん畑を見下ろすこの場所に作詩加藤省吾・作曲海沼実の自筆の歌詞と楽譜を
天城産の安山岩にきざんで、昭和58年11月1日に除幕式が行われた。