伊豆の歴史・文化

伊豆にまつわる人物 〜伊東市

伊東祐親(いとうすけちか)

伊東祐親 伊東家は藤原氏の流れをくみ、狩野一族本姓工藤と名乗り
伊豆国の国府の介(次官)として「狩野介」と称し、
伊東祐親は八百年前武家時代に伊豆一円を統合し
伊東の庄の館主にて豪勇の眼光のするどい武将であった。
その生涯において源頼朝と娘八重姫による孫、千鶴丸に悲運の物語りがある。
安元2年、相続争いから長男河津三郎祐泰(すけやす)が
祐親の従兄弟にあたる工藤左衛門尉祐経(すけつね)の郎党に奥野の狩りのおり、
椎の木三本のかげよリ遠矢をかけられ非業の最後に端を発し、
その遺児曾我十郎祐成(すけなり)・五郎時致(ときあつ)兄弟の苦節18年のすえ
源頼朝の富士の巻狩りに工藤祐経(すけつね)の仇討つ
日本三大仇討ちの一つ「曾我物語」は、日本の歴史の心に生きております。
頼朝は平維盛(これもり)の軍を迎え撃ち、
入道祐親は平家一門の恩顧に報ぜんと九郎祐清(すけきよ)と共に
富士川西岸の平家軍に投じようと軍を進めたが、南伊豆にて囚われの身となる。
三浦介義澄(よしずみ)、土肥二郎実平(さねひら)、畠山重忠(しげただ)など
頼朝の有力御家人を娘婿に持つ伊東入道祐親は
これらの人の助命嘆願によって赦免の沙汰をうけるが
これを恥として、寿永2年鎌倉の三浦介義澄の館で従容として武将らしく自刃した。60余才と伝えられております。

三浦按針(みうらあんじん)

三浦按針 英国人ウイリアム・アダムスはケント州ジリンガムに生まれ
12才でライムハウスの造船所で徒弟として12年間働き、
造船、天文学、航海術を勉強し、25才で海軍に入りドレイク艦隊の艦長をつとめた。
1598年6月オランダの東洋遠征隊(5隻)の航海長をつとめ地獄のような苦しい航海の末、
ただ1隻リーフデ号が1600年4月、九州豊後沖に漂着した。
大阪城で徳川家康に調べられ、彼の人柄がすばらしいことから信用され
江戸日本橋に1軒の家を与えられ、江戸城に通い
家康に数学・地理学を、幕府要人に砲術・航海術・天文学などを教え、家康の外交顧問となった。
慶長9年から11年の頃、家康の命令で浦賀水軍の総帥向井将監と船大工一行とアダムスは、
伊東の船大工を使い松川河口(唐人川合流地点)で
日本初の洋式帆船80トンを建造し、この船で沿岸測量をした。
再び家康の命を受け、外洋に出られる大型船120トンを建造した。
慶長15年にこの120トンの船をインスパニア(スペイン)の提督ビベロに貸与し、
アメリカを経てアカプルコ(メキシコ)に太平洋を横断して安着した。
(洋式帆船建造進水を記念して毎年8月10日に披針祭を開催)
英国も慶長18年(1613年)にグロー号が平戸に入港し、
司令官ジョン・セーリスと会い家康・将軍秀忠に合わせ平戸商館の設立に協力し、
琉球・シャムに航海したのち、独立して中国との交易のためトンキンに渡来、活躍。
元和2年(1620年)56歳で平戸でその生涯を閉じた。
「青い目のサムライ」牧野正著より引用 画:馬堀喜孝画

木下杢太郎(きのしたもくたろう)

木下杢太郎 本名・太田正雄(1885〜1945)
「米惚」と称する伊東素封家の末っ子として明治18年8月1日に呱々の声をあげた。
米惚は呉服や雑貨をあきなう商家であった。
家には祖母や母親が好んで読んだ江戸時代の絵草紙や錦絵があり、
その一方父惚五郎の明治10年の「書籍書類直価一覧表」によれば
「学問のススメ」「地学事始」「耶蘇教意問題」など近代文明の書物がはいっていた。
このように姉、兄や杢太郎は壮年期から江戸文化と明治の近代文化を吸収していた。
杢太郎は13才の時に上京し、独協中学、一高を経て明治44年、東大医学部を卒業した。
在学中から彼の文学熱は旺盛であり、「明星」に参加し、
与謝野鉄幹・与謝野晶子、北原白秋、石川啄木らの詩人と交わり友好を深めた。
明治41年に白秋らと新潮社を脱退し新たにスバルを創刊、また画家たちと「パンの会」を結成。
さらに耽美主義の隆盛をめざし、「屋上庭園」を発行した。
この頃、森鴎外の観潮楼歌会にも出席し、公私にわたる鴎外の指導を得、鴎外に傾倒していった。
この時期(明治40年〜大正5年)の10年間が彼の文芸活動の最盛期であり、
日本近代詩に異国の情緒と江戸趣味を融合した詩風をもって、白秋と並び称される新風を吹きこんだ。