伊豆の歴史・文化

北条早雲 戦国時代の扉を開いた武将「北条早雲」は、
備中国(岡山県)で高越城主伊勢新左衛門盛定の子として生まれました。 妹の嫁ぎ先の縁で駿河国(静岡県)へうつり、
今川氏につかえたことをきっかけに伊豆国(静岡県)に攻め込み、
さらに小田原城を攻め落として相模国(神奈川県)を手にして
北条氏の関東制覇の礎を築きました。
武勇と情勢判断に優れた早雲は、領国経営にも手腕を発揮し、
領民から名君と慕われていました。
こんな早雲にゆかりの深いまちを、あなたも訪ねてみませんか。

北条早雲の足跡

北条早雲とは、その死後に付けられた名前です。
早雲自身は出家以前には「伊勢新九郎盛時」を、出家後は「早雲庵宗瑞」と名乗っています。
早雲の子氏綱が、伊勢から北条へ改姓しました。
なお、幼名の「新九郎」は北条家の長男に代々引き継がれていきます。

早雲の父伊勢盛定は、室町幕府に出仕し八代将軍義政の申次を務めていました。
申次とは、大名等と将軍の取次ぎ役のことで将軍の側近にあたります。
早雲は、文明八年(一四七六)には幕府に出仕し、文明十五年(一四八三)には九代将軍義尚の申次になっています。
幕府中枢での経験は、その後の早雲の行動に大きな影響を与えています。

旱雲は、武力をもって次々と領国を増やしたかのように見られがちです。
確かに早雲の後半生は戦いの日々が続いています。
しかし、自らの欲のために領国を増やしたのではなく、
当時の中央並びにその地域の政治状況に的確に応じた、その結果と言えるでしょう。
旱雲は、農民が負担する年貢を減じていますし、
戦う意志のない者まで攻め滅ぼすような行為には及んでいないのです。

早雲は、大徳寺で禅を学んでいます。
「早雲寺殿廿一箇条」という早雲作と伝えられる家訓が知られていますが、
ここでも「仏神を信じること」を挙げています。
また、この家訓では、和歌をたしなむことや、常に懐に書籍を入れておくことなどを説いています。
子の氏綱が積極的に京の文化を取り入れたことは有名ですが、
こうした素養は、父早雲から引き継がれたものと言えるでしょう。

早雲は「早雲寺殿廿一箇条」で掃除に水を使うにあたり、
適任者に掃除をすべきところを調べさせてから、水を使うように説いています。
また、同時代に生きた連歌師宗長は、早雲を
「針すらも蔵に蓄えるが、戦いがあれば高価なものでも打ち砕いてしまう」と評しています。
旱雲が常日頃倹約に努めていたことを伝えるエピソードです。

高越城址 戦国時代には備中伊勢氏が居城にしており、
伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)が青年期まで過ごしました。
主郭に生誕の地の石碑が建てられています。

備中伊勢氏の菩提寺である法泉寺蔵の早雲画像は、早雲の戦陣の姿を伝える貴重なものです。

毎年四月に高越城址顕彰会を中心に、
北条早雲公を偲び地元の芸能などが奉納され、手打ちそば、おこわなどが販売されています。

興国寺址 北条早雲が、駿河守護・今川家の家督争いを鎮めた功績により、
東駿河の領地と共に与えられた城。
その後、五代100年におよぶ小田原北条氏の基礎を作った
早雲の、戦国大名としての第一歩を踏み出した城が
この興国寺城であり、早雲旗揚げの城と言われています。

長浜城址 海上に突出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地。
天正八年(1580)の武田氏との海戦では、
前線基地として、水軍の主力が集結しました。

韮山城址 戦国時代の幕開け、早雲生涯の城。
北条早雲は堀越御所の内紛に乗じ茶々丸を滅ぼし、
韮山城を居城とし、終生ここに住んでいました。

室町幕府の出張所。
早雲に滅ぼされた堀越公方足利茶々丸の館跡。
広大な園池や建物の一部、多くの陶磁器などが発見されています。

旧街道石畳 小田原箱根口から芦ノ湖畔までの上り四里、
三島までの下り四里をあわせ「箱根八里」といい、
東海道の中でも箱根越は苦難の道でした。
旧東海道に残る古道の石畳は、
現在畑宿から湖畔まで往時の石畳が整備保存され、
多くの人々が当時の面影をしのびながら散策を楽しんでいます。

徳川時代の大名の参勤交代の様子が、きらびやかに繰りひろげられる一大時代絵巻。
格式11万3千石、総勢170余名の行列が湯本の町中を一回りします。

旧街道石畳 小田原城は室町時代に大森氏の築いた山城が前身で、
その後、明応四年(1495)に
戦国大名小田原北条氏の居城となってから、
日本最大の中世城郭に発展しました。
本丸を中心に「城址公園」として整備されています。

大正一八年(1590)、小田原北条氏を討伐するため、
豊臣秀吉により築かれました。
現在は井戸曲輪跡のさざえの井戸などが残り、歴史公園として整備されています。

初代北条早雲をはじめ、歴代当主を大将とした北条軍団を中心に、
総勢2000人にも及ぶ武者行列が市内を勇壮に練り歩く、本市最大のイベントです。

法泉寺 早雲の父伊勢盛定が、永享二年に古澗仁泉を招き曹洞宗の寺として開山しました。
早雲は古澗仁泉和尚を学問の師として仰いでいたと伝えられています。
岡山県井原市西江原町4841

桃源院 早雲の妹でもある今川義忠の正室北川殿の菩提寺と伝えられています。 静岡県沼津市大平677

願成就院 早雲に追われ足利茶々丸が逃げ込み自刃したといわれる寺。
鎌倉時代に源頼朝の奥州攻めを祈願して北条時政により建立されました。
重要文化財に指定されている運慶作の仏像が安置されています。
静岡県伊豆の国市寺家83-1

早雲寺 大永元年(1521)北条氏綱が父、早雲の遺命により建てた京都紫野大徳寺派の名刹。
北条五代の墓、連歌師宗祗法師の句碑と供養塔、
重文・北条早雲画像などを有しています。
神奈川県足柄下郡箱根町湯本405

坦庵公 江川太郎左衛門英龍は亨和元年(1801)に生まれ
天保6年35歳から安政2年55歳で亡くなるまで、韮山代官として活躍しました。
坦庵(たんなん)と号したため、現在尊称を「坦庵公」と呼ばれています。
坦庵公が生きた時代は幕末期で、日本が諸外国から開国をせまられていた頃です。
彼は反射炉、品川台場の築造など代官として領地の支配だけでなく
国の将来に向かっての仕事をたくさん手がけてきました。
世直江川大明神 代官とは、天領(幕府の直轄地)を治める役職で、
江川家は天正18年(1590)の後北条氏滅亡後、
英長から代々世襲代官を務めてきました。
天保9年(1838)坦庵公は郡内騒動後の荒れた甲斐国都留郡の支配を命ぜられました。
都留郡は支配の難しい地域であったので、
坦庵公は家臣の斉藤弥九郎と刀剣の行商を装って事前に視察を行いました。
その結果、郡内は安定し喜んだ農民は初午の節句に「世直江川大明神」の紙織をたてて善政を賞賛したとの事です。
世直江川大明神 ペリーに代表される諸外国による開国要求に対し、沿岸警備や治安維持のために農兵制度を提案したのも坦庵公です。
坦庵公没後、英武の時代には韮山・三島をはじめ、各地で調練場が設けられました。
また、安政元年(1854)開国交渉で下田を訪れたロシアのプチャーチン提督のディアナ号が
11月4日に発生した大地震により座礁、修理のため戸田への回航中、嵐のために沈没してしまいます。
そのため、勘定奉行川路聖謨らの依頼を受け、洋式帆船建造の指揮をとる事になります。
完成したのは坦庵公没後になりますが、「ヘダ号」と名付けられロシアに引き渡されました。
韮山笠 坦庵公は進歩的な考えを持った人物で、良いと感じたものは次々と取り入れていきました。
天然痘の予防のため、自分の子供に試したあと後に北江間の少年に種痘を実施したり
外国との戦いに備える兵糧食として、パンを日本で初めて焼きました。
また、射撃に便利な韮山笠を作り、大流行させています。
現在でも使われている「きをつけ」「前へならえ」などの号令も坦庵公が考え出したものです。
坦庵公は質素倹約を旨とし、食事は一汁一菜、娘には菓子箱で製作した硯箱を与えていたほどです。
しかし、必要な事には大金を投じており、
イギリスの軍艦艦長との交渉に当たった際「蜀江の錦」の袴をつけ、交渉の末退去させています。
坦庵公は、最初の師である幡崎鼎が伊勢に追放になったあと、渡辺崋山に師事しました。
渡辺崋山は、高野長英や坦庵公らの属する、純粋な蘭学を学ぶ山の手派(蛮社)蘭学者の中心人物でした。
天保5年(1834)のモリソン号事件をきっかけとして、
海岸防御のための江戸湾測量を命じられた坦庵公は、渡辺崋山・高野長英の支援を受けて正確に実施しました。
しかし、もう一人この仕事を命じられていた目付鳥居耀蔵の反感をかってしまい、
結果的に「蛮社の獄」によって崋山・長英を失ってしまいます。
また、坦庵公は隣国の清がアヘン戦争で敗れたことに危機感を持ち、西洋砲術採用を提案した高島秋帆を支援しました。
実際に挙行された徳丸原(現在の高島平団地)演練の結果、幕府はこれを採用する方針でした。
ところが、あくまで反対する鳥居は秋帆に謀反の疑いをかけ逮捕、結局は実現に到りませんでした。
老中水野忠邦の失脚などもあり、坦庵公は不遇の時代を、韮山塾で教育、研究、兵書の翻訳などで過ごしました。
この頃、塾生をつれて天城・江梨・箱根と山猟の際「里はまだ 夜深し富士の 朝日影」を詠み画讃を残しています。
広く世界のようすを観察し、私欲なくさまざまな提案を行ってきたにも関わらず
それらがなかなか老中らに理解されないという、暗くやりきれない気持ちがあらわれています。