伊豆の歴史・文化

伊豆にまつわる人物 〜松崎町

幕末松崎の漢学者 土屋三余(つちやさんよ)

土屋三余 文化12年(1815)伊豆国那賀郡中村、現在の松崎町那賀の名門土屋家に生まれた。
江戸で漢学を学び帰郷、三余塾を開く。
「士農の差別をなくすためには、業間の三余をもって農家の子弟を教育することが必要だ」と説いた。
門下生に逸材も多く、依田佐二平、依田勉三などの郷土の偉人を育てた。

郷土発展の功労者 依田佐二平(よださじへい)

依田佐二平 弘化3年(1846)松崎町大沢の旧家依田家の長男として生まれた。
三余塾の門に入ってのち江戸に出て学ぶ。
元治元年(1864)に大沢塾を設立、教育事業に乗り出す。
養蚕業の近代化における功績は大きく、産業振興、海運振興、
さらには北海道開拓に依田勉三ら弟たちを送り出し、困難な開拓事業と取り組んだ。

北海道開拓の先駆者 依田勉三(よだべんぞう)

依田勉三 嘉永6年(1853)依田家の三男として生まれた。
兄佐二平とともに三余塾で学び、幼少から開拓精神に目覚める。
十勝開拓のため晩成社を設立。
明治16年開拓団27名とともに北海道へ渡る。
だが開墾作業は干ばつ、長雨、害虫と思わぬ天災に見舞われ、難渋をきわめた。
苦節四十余年、事業としては実りのないままに、大正14年72才で没した。
しかしその不撓不屈の精神には称賛を惜しむ者がない。

漆喰鏝絵の名工 入江長八(いりえちょうはち)

通称「伊豆の長八」
文化12年(1815)当時の伊豆国松崎村明地(現在の松崎町)生まれ。
父は兵助、母はてご、長八はその貧農の長男だった。
幼少より浄感寺の正観和尚にかわいがられ、浄感寺で開かれていた塾へも通った。
12才のとき、左官棟梁・関仁助に弟子入りし、手先の器用さで棟梁を驚かせている。
漆喰細工に絵の技法を取り入れてみたいと思っていた長八は
19才のとき江戸へ出、狩野派の絵師のもとで修行をした。
鏝絵という新分野の技法を工夫した結果、長八独特の芸術的ジャンルをひらき、多くの名作を生み出した。
江戸で名工とうたわれるようになったのは26才の頃という。
長八の作品は、現在長八記念館伊豆の長八美術館などに展示公開されている。

堂宮彫刻の名工 石田半兵衛(いしだはんべえ)

幕末の堂宮彫刻の名工・石田半兵衛(邦秀)は、
現在の松崎町江奈の生まれで、その父先代半兵衛も彫刻師だった。
また、半兵衛の長男(のちの小沢一仙)、次男富次郎、四男徳蔵とその長男俊吉も、
父とともに彫刻の道に励み、それぞれ伊豆、山梨、神奈川などの神社仏閣に多くの作品を残している。
半兵衛の代表作の一つ「唐獅子」が浄感寺の本堂にある。

名工の腕だめし 小沢一仙(おざわいっせん)

石田半兵衛の長男で、やはりすぐれた彫刻作品を残している。
天保元年(1830)生まれ。本名は馬次郎という。
当時、掛川藩の江奈陣屋と掛川との交通は、松崎港から清水港を経由して遠州川崎港に至る船にたよっていたが、
一仙は松崎から直接川崎港へ行ける安全な船を造ろうと思いたつ。
大変奇抜なアイディアの船だったので、最初は失敗もしたが、
文久3年(1863)当時としては珍しい鉄製の船を完成させた。
その後、志あつく東山道官軍鎮無隊として挙兵したが幕府に捕らえられて処刑された。

浄感寺塾の開祖 本多正観(ほんだしょうかん)

浄感寺中興の祖といわれる十三世住職。
天明2年(1782)岩科村道部の鉄砲鍛冶の家に生まれる。
浄感寺十二世住職正倫に子がなかったので、養子として迎えられ、
若くして備後、安芸で修行を積み秀才とうたわれた。
伊豆に帰る際、備後のイグサの苗を持ち帰り、イグサの栽培を推奨し
畳表を「浄感表」と名付けて販路を広めると、やがて甲駿地方まで「松崎表」の名で知られるほどになった。
一方、浄感寺塾を開いて学問を教え、門弟の数は530人におよぶ。
この中には、
三余塾を開いた土屋三余、下田で漢学塾を開いた高柳天城、名工入江長八、石田半兵衛、小沢一仙らがいる。

薬学界の最高権威 近藤平三郎(こんどうへいざぶろう)

明治10年(1877)薬商をいとなんでいた平八郎の長男として生まれ、同30年東京帝国大学医科薬学科に入学。
卒業後、日露戦争に薬剤官として従軍、同39年陸軍医学校教官となり、翌年ドイツ留学。
ベルリン工科大学で有機化学を専攻した。
その後、薬学主任教授となり、アルカロイド研究に着手。
東京帝大名誉教授、日本学術会議委員、日本薬剤師会会長、日本学士院会員など
数々の重要なポストを歴任し、昭和33年文化勲章受章、同38年没。享年85才。
松崎町では唯一の文化勲章受章者。

清廉潔白な五代目国鉄総裁 石田礼助(いしだれいすけ)

明治19年(1886)松崎町江奈に生まれる。
生家は網元で、父の石田房吉は遠洋漁業の先駆者として知られた人。
礼助は明治40年東京高等商業学校(現在の一橋大学)を卒業し、三井物産に入社。
その後、シアトルをはじめとする国外の各支店長を経て、昭和14年には代表取締役になった。
16年日米戦争の回避をとなえて辞任。
戦後はしばらく神奈川県で農業をしながら浪人生活を送っていた。
31年からは国鉄監査委員長となり、38年には五代目総裁に就任。
「ヤング・ソルジャー」と自称したり、報酬を返上したりして話題になった。
在任中、東海道新幹線をはじめ、山陽新幹線着工、急行増発を行い、増収をはかる一方で
顔パスや接待ゴルフを禁止するなど、国鉄経営のあり方に赤信号をともした。
53年没。まさに清廉潔白を貫いた人生といえる。

昭和の船造り名人 岡村末次郎(おかむらすえじろう)

映画「空海」の遣唐使船も、大河ドラマ「黄金の日々」に登場した千石船も、
松崎の岡村造船所社長岡村末次郎(故人)が造ったもの。
明治44年生まれ。船大工の修行をはじめたのが15才だった。
その後船舶工兵としてフィリピンを転戦。
復員後は独立して伝馬船から漁船・帆船まで、なんでも手がけたが
なかでもカッター製造技術の優秀性にかけては定評がある。
趣味は船の模型造りで、松崎町役場に遣唐使船のミニチュアが展示されている。